2010年 02月 10日
ブライアン・ボンドの著作「戦史に学ぶ勝利の追求」を少しずつ読んでおります。まだ第一章しか終わっておりませんがかなり面白いです。
最後まで読んでみないとわかりませんけど、こりゃーいい本ですよ。防衛大学の副読本として翻訳されたらしいですが納得がいきます。戦略を学ぶにはお勧めです。
■サソリ食べ、コブラの血飲むサバイバル訓練 日本も参加の6か国合同軍事演習
はたしてこれは本当に必要な訓練なのだろうか。
動物の虐待を平然とおこなう軍隊は、いまやその存在にそのものに疑問が生じているといわざるえない(棒読み)
■ランチは生肉!「原始人ダイエット」にはまるニューヨーカーの日常
一般にテクノロジーは私たちを取り巻く「外部」の環境の一種と考えられています。一方、そこに人間の知を「内部」として対置することで、人とテクノロジーを内と外に、「人間の知」と「人間を取り巻くテクノロジー」という(場合によっては対立する)関係ととらえがちです。その結果、この記事のようにテクノロジーの依存度を下げることに意義があると感じるようになる人が登場します。似たような例には、農薬を使用した野菜への反発と無農薬野菜や有機野菜への傾倒などがあります。
ところがこれは先ほど述べたとおり意味がありませんし、これでは何も解決しません。なぜならテクノロジーとは人間の知的構築そのものであり、人の「表現型(フェノタイプ)」なのです。テクノロジーは人の「外」ではなく、「内」でもありません。
テクノロジーは「内」と「外」が複雑に入り混じっている境界領域であり、そこから「内」と「外」が新たに作り出される、いわば人の「皮膚」のようなものなのです。例えば、パソコンそのものは完全に人の「外」にありますが、そのパソコンに関する知恵・知識は人の「内」にあります。そしてこのパソコンから、新たなテクノロジーが生み出されることもありえるわけです。
彼らのように拒否反応を示し、自然回帰を唱えることは、そもそも自然に帰る行為ですらありません。なぜなら彼らが主張する原始的な知恵や道具を使った手作業は、機械操作と比べても劣らない、複雑で熟練を必要とするテクノロジーなのです。彼らはただ単に我々とは違う「別の種類のテクノロジー」を選択しているだけです。
(その生肉は、飼育、屠殺、切り分け、運搬という過程を得て店頭に並び、それを貨幣で購入してるからテクノロジーまみれじゃん、というツッコミもある)
テクノロジーに対する「免疫不全」はなぜ起きるのかということはさておき、バランスの取れた食事を行うことと、運動不足の問題はまったく関係ないにもかかわらず、テクノロジーを否定し見せ掛けの依存度を下げることで満足しているわけですね......
なんというか・・・まあいいんじゃないでしょうか。
新たなテクノロジーの導入を拒否することや、過去のテクノロジーを再利用することは自然なことです。しかし新しいテクノロジーを否定して、古いテクノロジーを選択しているだけなのに「自然最高」とかゆーてると、社会と衝突するだけです。この記事にしたって、単純に食事のバランスを整え、運動不足を解消すればいいだけのことなのに、なぜか「食事を生肉にすれば解決!」みたいな論調になっております。こーいうのの極限の一つにアーミッシュがあるのかもしれません。
アーミッシュで思い出したんだけど、ヤマギシズムが講演会や販売会をやってるみたいなんだけど、誰か暇な人がいたら一緒に行ってみない?
あと「いまは納豆いらない」を英語で言うと No Not Now です。
最後まで読んでみないとわかりませんけど、こりゃーいい本ですよ。防衛大学の副読本として翻訳されたらしいですが納得がいきます。戦略を学ぶにはお勧めです。
■サソリ食べ、コブラの血飲むサバイバル訓練 日本も参加の6か国合同軍事演習
はたしてこれは本当に必要な訓練なのだろうか。
動物の虐待を平然とおこなう軍隊は、いまやその存在にそのものに疑問が生じているといわざるえない(棒読み)
■ランチは生肉!「原始人ダイエット」にはまるニューヨーカーの日常
ローレン・コーデイン(Loren Cordain)教授は、今や世界中の食生活が穀物に頼りすぎていると嘆く。同教授は、先史時代の食事メニューから離れてしまったことが、がんや肥満、高コレステロールといった「文明病」を人類にもたらしたと主張する。私はテクノロジー至上主義なので──テクノロジーがすべての問題を解決してくれるという万能主義ではない──こういった機械文明に対する拒否反応はありません。また、こういった機械文明に対する拒否反応は無意味だと考えております。
一般にテクノロジーは私たちを取り巻く「外部」の環境の一種と考えられています。一方、そこに人間の知を「内部」として対置することで、人とテクノロジーを内と外に、「人間の知」と「人間を取り巻くテクノロジー」という(場合によっては対立する)関係ととらえがちです。その結果、この記事のようにテクノロジーの依存度を下げることに意義があると感じるようになる人が登場します。似たような例には、農薬を使用した野菜への反発と無農薬野菜や有機野菜への傾倒などがあります。
ところがこれは先ほど述べたとおり意味がありませんし、これでは何も解決しません。なぜならテクノロジーとは人間の知的構築そのものであり、人の「表現型(フェノタイプ)」なのです。テクノロジーは人の「外」ではなく、「内」でもありません。
テクノロジーは「内」と「外」が複雑に入り混じっている境界領域であり、そこから「内」と「外」が新たに作り出される、いわば人の「皮膚」のようなものなのです。例えば、パソコンそのものは完全に人の「外」にありますが、そのパソコンに関する知恵・知識は人の「内」にあります。そしてこのパソコンから、新たなテクノロジーが生み出されることもありえるわけです。
彼らのように拒否反応を示し、自然回帰を唱えることは、そもそも自然に帰る行為ですらありません。なぜなら彼らが主張する原始的な知恵や道具を使った手作業は、機械操作と比べても劣らない、複雑で熟練を必要とするテクノロジーなのです。彼らはただ単に我々とは違う「別の種類のテクノロジー」を選択しているだけです。
(その生肉は、飼育、屠殺、切り分け、運搬という過程を得て店頭に並び、それを貨幣で購入してるからテクノロジーまみれじゃん、というツッコミもある)
テクノロジーに対する「免疫不全」はなぜ起きるのかということはさておき、バランスの取れた食事を行うことと、運動不足の問題はまったく関係ないにもかかわらず、テクノロジーを否定し見せ掛けの依存度を下げることで満足しているわけですね......
なんというか・・・まあいいんじゃないでしょうか。
新たなテクノロジーの導入を拒否することや、過去のテクノロジーを再利用することは自然なことです。しかし新しいテクノロジーを否定して、古いテクノロジーを選択しているだけなのに「自然最高」とかゆーてると、社会と衝突するだけです。この記事にしたって、単純に食事のバランスを整え、運動不足を解消すればいいだけのことなのに、なぜか「食事を生肉にすれば解決!」みたいな論調になっております。こーいうのの極限の一つにアーミッシュがあるのかもしれません。
アーミッシュで思い出したんだけど、ヤマギシズムが講演会や販売会をやってるみたいなんだけど、誰か暇な人がいたら一緒に行ってみない?
あと「いまは納豆いらない」を英語で言うと No Not Now です。








